夜明けに向けて出航を

適応障害での休職が明け一週間が経過した。慣れない環境と仕事に晒されたことで、体力的にも精神的にもかなり疲弊した。しかし、半日ではあるものの5日間休まず出勤できた。外来で関わる職員とも、全員では無いだろうが挨拶ができた。久々の採血もやってみれば思い出せたので、これだけで今週は十分だったと思う。
休職前の去年は、月並みだが次の勤務日が来るのが怖かった。世間が感染症に振り回され、緊急事態宣言だテレワークだと言われている中でも、ある意味変わらない職業生活過をごしていた。感染症なんかよりも、職場や仕事への恐怖の方が余程現実に迫っている感覚があった。いつも逃げたくて、いつも死にたかった。
今も、仕事を好きとか楽しいとは思わないし、早く仕事を覚えて、早く勉強をしなければというプレッシャーを己に掛けてしまう瞬間はある。だが、以前のような死にたくなるほどの苦しさは薄くなった。耐久性に見合わないプレッシャーを掛けるのも止めようと、自分に声を掛けることができるようになって来た。

これでも、休職直後は、復職したら慣れた仕事やスタッフのいる病棟に戻る事を考え、異動は全く選択肢になかった。
だが今思えば、元の環境へ戻るという事は、病前と同じ状況・状態に戻る事とも考えられる。無理難題を突き付けてくる患者や患者家族との関わり、患者との関わり以外で発生している雑多過ぎる業務や、やりたくもない研修課題、色々なものに振り回され続け、ストレスを溜め、なおかつシフト制3交代夜勤有りで生活リズムは常に狂っている。休みまで好きでもない仕事に侵食され、疲れ果て死にたさに付き纏われる生活。過食と酒と薬でストレスを誤魔化していたが、その行為をしている事すらもストレスだった。苦しみから逃げたい一心が死にたいという言葉に変換され、死にたいとつぶやく事が止められない。もうそんな生活に戻りたくなかった。
正直、適応障害になったのは労働環境だけが原因では無いと考えている。頑張りたくない・どう頑張ったらいいのか分からないと混乱した自分に、頑張れないことをとにかく許さない自分が鞭を打って疲弊し続ける、そんな自家中毒みたいな精神構造を持っていたのも原因の一つだったろう。だが、病棟勤務には病みに至るきっかけが沢山あったのも事実だった。

上長から病棟離れる選択を提示されたとき、それでも少し迷いはあった。新しい仕事と人間関係に慣れること、病棟勤務と違って平日に休みはなく、日勤のみは給料が確実に下がること。変化は新たなストレスを生み、変化に適応できなければ、また適応障害は繰り返すだろうという予測が一瞬で見えた。
だが、人間は変化に弱い一方で、変化し適応する事もできる生き物でもある。休職したことで、ゆっくり本を読み、自分の事を振り返る機会が得られた。その中で私は、自分をどうにか出来るのは自分しかいない事を強く確信し、それを信じることにした。自分を大切にし慈悲を向けるのも、蔑ろにし虐待するのも、結局のところ自分しかいない。自分が無為に傷付かない生き方を模索し、そのための行動をするのも自分。他方、自分を傷付ける生き方から変化しないという行動を選択をしてきたのもまた自分だ。
選択に優劣はないと思うし、これまで後者で生きてきた自分を今更否定はしない。振り切れて死ななかったのが本当に幸いだったと思う。ただ、こうして健康を害した身として、今後はどうしたら健康に生きれるのかを判断基準として持とうと思うようになった。今度は自分の事を、この世に唯一のひとりとして大切に、幸せにしたいと考えた。これもまた、休職で得られた気付きだと思う。現実とは、厳しくとも優しくともなく、ただ事象がそこにあるだけだ。それが幸せか不幸せか属性をつけるのは、ただの個人的解釈=認知でしかないのだろう。ならば、私は可能な限り楽しく幸せに生きたい、そう考えるようになった。
自分自分と強く押し出しているような感じだが、お前が消えて喜ぶものにお前のオールを任せる必要はマジでないと思う。よくよく気が付くと親や世間や常識などという他人の価値観、考え方、見方に舵取りを乗っ取られがちになるが、自分の価値観、大切にしたい事をベースに生きる方がよほど健康的だろう。たぶん、心身ともに健康な人は、そういうのをわざわざ考えずとも、自然に出来ているんではないかなと思う。

今の私には、お金や平日休みの利便性より、心身を安定させる事が大事だと思った。環境の変化を受け入れることは、自身を苦しめる不健康な行動パターンを変化させるチャンスだと思った。だから異動の提案を受け入れることにした。それに、本当に無理になったら辞めればいいという選択肢も加えた。病棟はおろか、職自体へ固執する必要もない事を自分に許した。もう生きる手段風情に私を殺されてたまるか。誰が理解を寄せてくれなくとも、私だけは私を最後まで見捨て無いように生きたいと思った。
結局死にたいのではなく生きたいと気付いたこと、これがこの一年の大きな変化だと思う。明日も仕事だが、私は死ぬために仕事をしているのではなく、生きるために仕事をしているという実感が少しずつだけど湧いてきている。


お題「#この1年の変化」

てめえらの血はなに色だ

外来勤務が始まり3日目が終わった。朝から指導役に「今日は採血やってもらおっかな!」と言われ、とうとう来たかと言う感じだった。
病棟でも採血はもちろんあった。入院患者は1週間に1回〜2週間に1回のペースで定期採血をする。夜勤明けの朝方、多いときで5人程度。院内の内科所属だったかつての同期の話からすると、少ない方だと思う。また上記のスケジュールと、入院が毎日来るわけではない特性から、下手をすれば採血のない夜勤もあった。
そんな微妙な経験の中での採血勝率を思い出すと、70%くらいか。採血は、血管さえ見つかれば取れるが、その血管を見つけるというのが難しかったりする。ご老体でもしっかり太い血管が表在している人もいれば、若くてもむちむちしすぎて血管行方不明になっている人もいた。正直、後者で戦績をあげた記憶がない。ただ、異常に苦手とも言うわけでもなく平均の少し下くらい。だから、やろうと思えばたぶんできるだろうくらいの心持ちだった。 

3ヶ月ぶりの私の採血の生贄となったのは男性患者だった。若めの人で血管も分かりやすい。また、病棟ではコストの観点からホルダー付き採血針という苦手なタイプの針が推奨されていてたが、外来では安全性の観点から翼状針という神の道具が推奨されていた。
刺す瞬間に一瞬緊張をしたが、刺してしまえばあっさり4本分取れた。駆血帯を外さずに針を抜くようなマネも流石にしなかった。無事終わり、待合室へ患者を送り出した。
その後も何人か採血し、最後の1人だけ針の角度を見誤り血液が引けずに交代をお願いしたが、それ以外は何とかこなせた。

採血の成功は素直に嬉しかった。技術は身体が覚えている、というのは正しくそうだと体感した。
よくよく考えると、人に針を指して血を見て喜ぶ人間、いやカエルというのは客観的に危ない感じもするが。医師もそうだが、看護師というのも、必要性からとはいえ合法的に人に侵襲を与えるやべぇ奴という側面があるので、そこへの抵抗感はないんだなあ、などと自分の事を振り返った。

聞いてよママから卒業を

復職して2日目が終わった。今日もまた見ている程度のことしか出来なかったが、うっすらと流れを理解できたところもあった。
帰りの更衣室では病棟の看護助手と会い、色々と話を聞いた。異動で看護師が入ったこと、その看護師が認知症のある患者に暴力を振るわれ、今も脚を引きずり気味に歩いているということ。
聞いたとき、正直自分は居なくて良かったと思った。
同時に、病気が暴力や暴言をさせているから、と患者に理解を寄せなければならない看護の心がまったく分からないので早く看護業界を去りたいという思いと、どうして看護師はそれを納得したり割り切ったりして働けるのか不思議に思った。深く考えず、経済の安定を理由に資格を取った私は、お金を理由に割り切ることの難しさをずっと感じていた。

そんな事を、母に少しだけ話した。ラインや電話帳に友達の連絡先が入っていても、通話できるような相手はほとんどいないからだ。
母は私の話に、「せっかく病棟を離れたのに、病棟のことを考えてたら意味がない」「そんな事聞いたところで今は混乱するんだからやめなさい」「今は外来の仕事を考えるのが先でしょ?それ現実逃避じゃない?」等々、豪速球で正論だけを返してきた。もしかしたら正論じゃない内容もあるかもしれないが、吟味できる状態でもなかったし、する気力ももうなかった。
失敗したと思った。普通に話を聞いてほしかっただけなのに、ただただストレスが倍増する羽目になった。

これまでも同じような事が何度もあった。いい年こいて聞いてよママをしては、正論を返され、釈然としない気持ちで傷付く。そうしてしてイライラしては、壊れない程度に床や壁を叩いたり、シャワー音に紛れて奇声を上げた。私は、親からの理解という名の幻想を求める3歳児なのだ。
世の中には共感しながら子供をうまく導くタイプもいるのであろうが、私の母は、少なくとも物心付いたときから正論しか言わないタイプのだったと記憶している。もしもこんな女が友人にいたら、絶対に距離を置きたいと思う。
だけどそれは、親だからこそ、家族だからこその心配の正論である事も、この年なので何となくは理解してはいる。
ただ、親に仕事の話をする事がストレスコーピングとしてどうなのか考えると、「失敗」であると判断出来る。ストレスは倍増した。私の手は痛くなって、胸の中がもやもやし、こうしてお気持ちを綴らなければ収まらぬという衝動が生まれただけだ。
これまでも繰り返してしまった行動だったが、改めてこのように書いた事で、親をコーピングの手段として頼るのは正しくなかった、むしろ、ストレス増幅器だと理解する必要がある、と気が付いた。健康的に生きるには、もっと自立したコーピング手段の獲得が必要な気がする。それは自分の中にストレスを我慢して押し込めるといった類でなくて、消化を上手くさせてあげる思考や手段を手に入れることだと思う。
これは新しい行動のチャンスかもしれない。前向きな考えは苦手だけど、ひとつひとつ気付いて行くことが変化への小さな一歩なんじゃないかなと思う。

今ここにある事実を見ろ

3ヶ月の休職期間を経てついに復職した。病棟から外来勤務に移動となった。人間関係に問題はなかったが、夜勤や強烈な患者トラブルの記憶もあり、上長からの勧めもあって、このような選択を取った。
旧部署に挨拶する間もなく、朝から復職プログラム先の部署で業務見学となった。
病棟から外来に関わる機会は少ない。入院を直接受ける機会も少ない病棟であったので、入院患者の診察付き添いくらいでしか近づかない。
忙しそう、という印象ではあったけど、曜日によって患者の波はあるようで、今日は比較的ゆっくりしているとのことだった。
診察から会計まで送り出す為のカルテや書類の準備、説明等の新たに覚える手順やローカルルール、採血のカンを取り戻す、そもそもの物品はどこにあるのか?等々、圧倒的な情報と、これを覚えられるのかという不安に押しつぶされそうになった。病棟よりもスピード感があり、とろい自分がやっていけるのかという不安と焦りが湧いた。
人間関係についてはまだ不安は薄かった。ただ、業務を覚えられず無能である事が発覚した時の居た堪れなさを想像して怖くなった。現実にならない事を祈りたいし、そうなったときは適応障害がまた爆発する。それはなんとか避けたい。
休職中も、復職出来るのか不安でひたすら焦った時期がある。それを心療内科の先生に伝えたとき、「焦ると折角回復した元気が減ってしまう」と伝えられたことがある。
不安を先取りする事は、危機回避として役立つ場面もあるかもしれない。けど、時として、未来にいきすぎて今を元気に生きる力を減らしてしまうことなのかもしれない。
また、認知の歪みの10項目でいうところの、結果の飛躍が発生してるのだろうとも思った。たぶんだけど、新しい仕事(事実)→覚えられない(事実ではない予測)→職場に迷惑が掛かる(事実ではない予測)→人間関係が悪くなる(事実ではない結果)という考え方に無意識になっている。
事実ではない事は今そこにない事としてあまり重要ではなく、今どうするか、本当はそこが大切なのだろうと思う。高すぎるハードルをいきなり設置せず、ゆっくりと、今度こそは地に足つけて今を歩いていけたらいいなと思う。
色々な不安はあるけど、今週は、とにかく通勤をして新しい部署に慣れる事が出来ればそれでいい。覚える事も必要ではあるけど、今の私は3ヶ月のブランクがあり、メンタルも病み上がりだ。十分睡眠を取れるように生活リズムを整える事、まだ顔を合わせていない職員へ挨拶すること、それが出来ればいいのかなと思う。それもなかなか大変だけどね。

お先にアフターシックスへ

今日は休職最後の平日休みであった。
折角なので、電源が点かなくなったトルコランプの修理のため、日暮里へ行こうと決めた。
トルコランプは、先日自分の不注意で机から落とした。ガラスシェードは割れなかったけど、灯りが点かなくなった。ランプ屋さんからのメールに従い、試しに電球を付け替えてみたが、やはり点かなかった。そのまま諦めて、シェードと台座をばらして随分と放置していた。
身支度を終えて、出掛けようと思ったとき、ふと、もしも灯りがついて、修理しに行く意味がなくなったら無駄になるのか?と、突然浮かんだ。自宅から日暮里までは約2時間かかるので、あまり洒落にならない。だから、灯りがつかない事を確認しておこうと思い至った。
付け替え用に買った電球をはめて、コンセントを繋ぐ。電源スイッチを押すと、電球がぱっと、淡いオレンジ色になった。え、光るやんけ。信じられなくて、電源ボタンを連打したり、逆さにして振ったりめちゃくちゃに弄った。でも、どんなに執拗に弄っても、灯りは煌々と点いた。
なんだか知らないが直った。よかった。でも日暮里に行く目的もなくなった。今日は、それだけで一日が終わる思ってたから、目的を失って呆然とした。
しばらくして、職場への菓子折りを買う事をなんとか思い出せ、外に出た。早急に必要な事だったのに、あまり重要だと思えなくて、思い出すまでに1時間くらい掛かっていた。
地元のショッピングセンターに行き、当たり障りのなさそうなお菓子の詰め合わせを選んだ。向かう道中、このやり場のない気持ちを何か楽しさに変えられないかと、突然地元の友達をラインでお茶に誘うという究極に迷惑な躁ムーブをかました。だが、色々な事情でその話はなくなった。
買い物を終えると、昼食を食べていないせいで異様にお腹が空いていた。友人へ提示したカフェに行こうか考えたが、考えてから1秒でラーメンが食べたくなった。紅茶とスコーンじゃ腹は満たせない。衝動のまま、でかい袋と共に、4駅先の好きなラーメン屋に向かった。
16時少し前に商店街の中のお店へ点いた。客は私ひとりだった。ラーメンとごはん、勢いで生ビールもつけた。
ラーメンの事はよく分からないけど、たぶんここは家系とかいうやつだと思う。動脈硬化加速装置かってくらい、濃い味の豚骨醤油とアブラでどろっとしたスープに、少し硬めの太麺。しかも、とろとろと黄身が溢れそうな煮卵に、食べ応えのある角煮とチャーシューも乗っている。血圧爆上げ間違いなし。食べ物は不健康なものほど美味しい。美味しいがゆえに罪深く、人を惹き付ける。
そこにビールを添えるのは、もはや犯罪行為か自殺企図なんじゃないかと思いドキドキした。もともと、お酒は人並みか、それ以下程度では飲めるけど、味が好きで飲むのは梅酒とかカクテル類の甘いものくらい。ビールも、本当はそれほど好きでない。だけど、飲むという行為や飲み心地を味わうなら、どんなアルコールでも好きだ。量さえ間違えなければ、ふわふわと意識が浮いてくる感覚が楽しい。友だちが一緒だと、更に楽しい。ただ、肝臓での分解時間とか睡眠の質とか仕事の事こととか、色々考えると、飲むタイミングはかなり限定された。だからこそ、お酒を飲むという行為をしようとするだけでも、非日常に行けるわくわくがあった。商店街のBGMも、ちょうど非日常の代名詞なディズニーの曲だった。
誰も食事を取らないような時間に、こってりとした汁が絡む凶悪なラーメンを啜り、角煮をご飯に載て口に運ぶ。本来なら自分も働いていただろう時間に、生ビールをぐびぐびあおる。こんな時間から暴力的な塩分と脂質とアルコールのエレクトリカルパレードで胃袋が満たされていくのは、なんだか浮世離れしているみたいで楽しくて、美味しかった。なんと不健康でワルなんだろうという夢と感動があった。仕事が始まれば、こんな事はそうそう出来ないなあと思うと、休職期間中の最後の平日に相応しい一日だった。

横たわる罪悪感

スマホのアラームで6時に起きた。この時間から布団を出れば、通勤まで余裕を持って支度できる。起きようと思ったが、布団から出られず、二度寝した。次に起きたのは8時だった。始業30分前だ。
今は適応障害の診断の元、休職している。だから、焦る事はなかった。職場に行かなくていいから。ただ、あーやっちゃったなあ、程度の後悔はした。
来月頭からは復職する予定で、昨日はそのときの働き方についても産業医と話をしたばかりだった。主治医とは、通勤訓練を続けていくという話をしていた。生活リズムを、出勤していたときのように戻さなくては。頭では分かっていたし、頑張ってはいた。
実際、そのように起きて活動できている日もあった。だけど、それを頑張ることに集中することに疲れてしまうときがある。そうすると、またたく間に動けなくなるのだ。ごく普通の働いてる人にとっては当たり前の習慣のようにやってること、私だって、前はやれていた事を、頑張らないと出来ない。働くために、頑張らないといけないのに、頑張ることが辛い。頑張る事が辛いと感じる頑張れない自分が駄目だと思いつつ、結局のところは、今は休みという事実に甘えた。

その後は、朝食を作り、食べて、何かをしようと思った。
職場の制服がギリギリでまずいなと思い、1月にはフィットボクシング2を買っていた。毎日、短い時間でも頑張ろうと思ってた。
昔は絵を描くのが好きで、また描きたいなと思っていた。ゆくゆくは、少額でも副業にできないかなという目論見があった。
本を読み、新しく知る事が楽しい事だと、この休み中に気付いた。手当り次第気になる事の本を読んで、生きるための知恵にしたいと思っていた。
将来についても、現実的なことを、ゆっくり考える事がしたいと思っていた。私は、いわゆる子ども部屋おばさんに分類のされる。最近、やっと自立を具体的に考えるようになった。
したい事はもっと、いっぱいあった。この休職という名の冬眠期間で、私を振り返り、今度はしたい事をできる自分になろうと、決意を固めていた。
けど、気付くと、床に転がっていた。スマホで動画やSNSを見ながら、私はぼんやりと過ごしていた。窓から青空が見えて、窓をすこし開けた隙間から外の冷たい空気が入ってきて、散歩もいいなと思った。しかし、私は床から動けなくて、スマホからも手を離せなかった。流しに置いて水につけただけの朝食の食器を洗っていないことも頭に浮かんだけど、すぐに消えてしまった。
そのまま気付くと昼になっていた。母と食事を済ませ、食器を下げたまではよかった。午後からこそは、何かをしようと思った。
が、私はそこでベッドの中に入ってしまった。少し休んで、それから動こうなどと思っていた。手にはスマホを持っていた。流しの食器の存在は、私のなかでまた消えていた。
ここ最近、スマホの使用時間の長さに驚いて(平均8から10時間)、アプリ毎に使用制限時間を設けている。インターネットへの逃避は、私が本当にやりたい事ではなかったからだ。実際、ネットに接続せず、日常を過ごしている日の方が、充実して穏やかな事を体験し、知っている。だが、私は、自分で決めた制限も守れず、ロックを解除し、使っていた。ベッドにゴロゴロと横たわって、また動画やSNSを見始めていた。インターネットには終わりがなかった。気付くと布団にくるまって眠っていた。
次に目を覚したのは夕方近くだったと思う。何かしようとして、何もできなくて、日が暮れて、暗くなっていく。それは、休職前の休みの日の過ごし方と似ていて、苦しくなった。

したい事をして何になるのだろうか。完璧に、上手く、誰かにすごいと思われるくらい、できるだろうか。そもそも、この行為に意味はあるのか。私を振り返り、私の中に完璧主義と虚栄心を見つけたとき、これが私の首を絞めて、行動を堰き止めているものの1つだと気づいていた。行動する事に恐怖感を抱かせるものが、私の中にはいくつかいる。それを早く手放すことが、私の回復だと思っていた。けど、それを出来ずにいた事を突き付けられたような一日だった。
そんな自分に変革を与えたくて、前からやってみようと思ったブログを書くことにした。続くかは分からない。元々Twitterはやっている。気が触れたとき120文字を連投しているが、それだけで間に合わないような、残尿感のようなものを、うっすら感じていることがあった。
復職まであと3日。休もうと思えば休職を延長する事は出来た。ただ、職場から返答を迫られ、私の諸事情と職場の制度的はものから、もう復職するしかないなと思った。確かに、働いてもいいかなって、思える日もあったから、私は行けると思って、そのように主治医と話してきた。
だけど、たぶん、確信はないが、このままの私が復職したところで、適応障害はまた爆発するのだろう。そうであれば、私は今、とても重大な嘘をついているような気がしてならない。