【架空エッセイ】俯いたときに見る夢・蜻蛉

 蒸し暑く閑散とした駅の構内を俯きながら歩いていると、薄汚れた点字ブロックの上に茶色い蜻蛉がいた。蜻蛉の身体は、ほとんど点字ブロックの色と同化していて、私が近づいても飛ぶ気配もなく、じっとそこにいた。

 死んでいるのだろうか。このまま誰かに、無残に踏まれはしないだろうか。潰れた蜻蛉の死骸を思い浮かべ、なんだか急にもの悲しくなった。

 蜻蛉を、せめて道の端に寄せてあげようと思い、点字ブロックの上にしゃがみこんだ。 すると、背後から、カツン、カツンと一定のリズムを持って棒で地面をたたく音が近づいてきた。蜻蛉を拾い上げようと手を伸ばしかけると、その音が止まって、次の瞬間、背中をしたたかに打ち付けられた。

 驚いて振り向くと、白杖を付いた老人が立っていた。

 「こんなところにいられちゃ困るんだよ。」

 老人がもう一度白杖を振りかざしてきたので、私は慌てて点字ブロックから退いて、尻餅をついた。

 老人はカツン、カツンと白杖を道に突きながら、点字ブロックの上を歩いていった。煤けた靴が蜻蛉を踏んで、パキッと音がなった。老人は、それを気にもとめず、点字ブロックをなぞるように歩む。やがて、上りホームへ向う方向へと曲がって消えた。私は痛みと驚きのまま呆け、老人がいなくなるまでその背を見つめていた。

 とんだ災難だったと、ようやく正気に戻ってゆっくり立ち上がた。老人の通った点字ブロックの上に、胴体が潰れ千切れ、内蔵が飛び出し、羽が粉々になった蜻蛉の死骸がいた。

 死骸になる前は可哀想だと感じて手を伸ばしたのに、いざ真っ二つに別れた蜻蛉を見ると、仕方ないという諦めの気持ちになった。気持ち悪いとか、そういった忌避する感情もなかったが、それに触れようという思いはもうなかった。

  蜻蛉の死骸から目を背けて、私は再び歩き始めた。

 下りホームへ向かう階段の途中、駅のアナウンスが流れた。上り電車での人身事故で、電車が上下ともに遅延すると、そんな内容だった。

 急ぐ用事があるでもなし。向かい側のホームを見つめながら、仕方ない、という気持ちで電車を待ち続けていた。