妄想に殺されかけて
【架空エッセイ】俯いたときに見る夢・蜻蛉
蒸し暑く閑散とした駅の構内を俯きながら歩いていると、薄汚れた点字ブロックの上に茶色い蜻蛉がいた。蜻蛉の身体は、ほとんど点字ブロックの色と同化していて、私が近づいても飛ぶ気配もなく、じっとそこにいた。
死んでいるのだろうか。このまま誰かに、無残に踏まれはしないだろうか。潰れた蜻蛉の死骸を思い浮かべ、なんだか急にもの悲しくなった。
蜻蛉を、せめて道の端に寄せてあげようと思い、点字ブロックの上にしゃがみこんだ。 すると、背後から、カツン、カツンと一定のリズムを持って棒で地面をたたく音が近づいてきた。蜻蛉を拾い上げようと手を伸ばしかけると、その音が止まって、次の瞬間、背中をしたたかに打ち付けられた。
驚いて振り向くと、白杖を付いた老人が立っていた。
「こんなところにいられちゃ困るんだよ。」
老人がもう一度白杖を振りかざしてきたので、私は慌てて点字ブロックから退いて、尻餅をついた。
老人はカツン、カツンと白杖を道に突きながら、点字ブロックの上を歩いていった。煤けた靴が蜻蛉を踏んで、パキッと音がなった。老人は、それを気にもとめず、点字ブロックをなぞるように歩む。やがて、上りホームへ向う方向へと曲がって消えた。私は痛みと驚きのまま呆け、老人がいなくなるまでその背を見つめていた。
とんだ災難だったと、ようやく正気に戻ってゆっくり立ち上がた。老人の通った点字ブロックの上に、胴体が潰れ千切れ、内蔵が飛び出し、羽が粉々になった蜻蛉の死骸がいた。
死骸になる前は可哀想だと感じて手を伸ばしたのに、いざ真っ二つに別れた蜻蛉を見ると、仕方ないという諦めの気持ちになった。気持ち悪いとか、そういった忌避する感情もなかったが、それに触れようという思いはもうなかった。
蜻蛉の死骸から目を背けて、私は再び歩き始めた。
下りホームへ向かう階段の途中、駅のアナウンスが流れた。上り電車での人身事故で、電車が上下ともに遅延すると、そんな内容だった。
急ぐ用事があるでもなし。向かい側のホームを見つめながら、仕方ない、という気持ちで電車を待ち続けていた。
サンドバッグもいつかは壊れる
8月18日、私は職場と自宅で過量服用(Over Dose:オーバードーズ=OD)をした。内容量としては、抗不安剤10錠、市販鎮静剤12錠、抗うつ剤4錠。
ブロン1瓶(60ないし80錠)を飲んだとか、そういうレベルではない、あまりに中途半端な量は、別に死にたくて飲んだ訳ではないことの現れかもしれない。なんで飲んだのと言われれば、イライラ感を止めたかったからだ。
また、これは心理検査の結果内容を表している出来事とも言えるかもしれない。少し振り返ってみたいと思う。
現在、私は常勤だが時短勤務のまま15:15に退勤している。同じ科で働く他の非常勤職員は、15:00に退勤している。
時間は恐らく14:40とかそれくらいの頃だったと思う。
週5で働いている非常勤職員は、珍しく連休を取ると言うことで、私に口頭で指示を残そうと何か喋っていた。が、私はその時何故か上の空だった。確か、他の用事も抱えていたかとか、そんな感じだと思う。
そこで外来の電話が鳴って、私が対応した。
コロナ禍で厚労省より適応された電話再診の予約電話だった。弊院は、クリニック規模でもないのに外来看護師が事務的な仕事を受ける機会が多い。
その患者は、ある検査を受けた際に、看護師から「検査結果は後日電話で聞いて、支払いが振込ができるって話なんだけど」と言った。
今まで受けた電話再診でよくあるパターンは、電話再診→次回来院時の前回分と合算で清算していくものばかりで、聞きなれない振込という対応で、まず頭の中が「?」で一杯になった。しかし、後に分かったのだが、ホームページには特に記載していないものの、そういうシステムは弊院にあるそうだ。
話を戻すと、電話再診は決まった書式に情報を聞き取って記入していく。が、その患者は特に薬をもらっていないとの話だった。電話再診は、たいてい症状の安定した患者が処方薬をもらうために受ける事が多い。そこでもまた、いつものパターンではない事に対して「??」となった。
そこで、とりあえず先生に可能かどうか聞いてみようと思い、保留にして、先生に電話を掛けた。
「電話再診で検査結果が聞きたい患者さんがいるのですが、処方薬がない患者さんで、電話再診でもいいですか?」
私はその時、振込の事が伝えられていたかどうか分からない。伝えられていたかもしれないし、抜けていたかもしれない。この辺が、恐らくワーキングメモリーや情報処理能力の低さを表していると思う。通常パターンと違う事に対する混乱に加えて、耳で聞いた情報を保持する力が弱いことと、その情報を正しく処理して瞬時に出力が出来ないのだ。
思えば、電話再診の要項を埋めるだけでなく、患者の言った言葉のメモを取れば良かったのだけど、そのときメモを取れていたかは曖昧だ。
先生は電話越しで独り言をぶつぶつ行ったあと「あーうん、いや。だめだ。急ぎの結果じゃないから来てもらってよ」と私に伝えた。
私はその通りに、患者に電話再診では受けられない事を説明し、予約ダイヤルへのかけ直しを患者に促した。
その後、周囲の先輩に電話の内容と先生の返答、その結末を伝えた。それから「電話再診って振込できるんですか?看護師から案内されたっていわれたんですけど…」と質問した。
2人いた非常勤職員の先輩は、揃って「うん、そうだよ」と答えた。
頭の中の「???」が更に増えて困惑した。同時に、「そんなさも当然知ってるだろうみたいな感覚で言ってくんなよ!振込できるとかしらねーよ!先教えておけよ!申込用紙に該当欄作っておけよ!」と、苛立ちが湧き始めた。が、電話再診申込用紙が挟まっているクリップボードをよくよく見ると、手書きの小さなメモで、振込について問い合わせのあった際の対応が書いてあった。別に書いてなかった訳ではなかったのだ。
そこから、今度は不安におちいった。
処理速度が遅い割に、感情はいつもアクセル全開だ。
振込ができるのであれば、このコロナ禍で来院させるのはどうなのだろうか。だが、検査を説明する当人である先生は来院を促した。私はそもそも先生へ伝達ミスをしたのではないか、患者に訂正の電話を入れて電話再診の手続きをするべきか。次の正しい一手が分からず、とにかく焦った。
それに関して先輩たちと私がやり取りをしていると、件の医師が診察室からひょっこり現れてこう言った。
「あれ、振込っておおやけにやってるわけじゃないでしょ。ホームページにもないし。だから、いいよ。来てもらう対応で。難しく考えちゃだめだよ。それとさ、振込で対応って私の患者さんにはしないでって。師長に問題提起しておいてよ」
おわかりいただけだろうか。フォローからの口頭伝達である。わけも分からないまま、私は必死でメモを取った。
それから、頭の中の整理はついてないものの、15:00には上がりたいであろう先輩から申し送りを聞かねばと思い、「さっきの伝えてもらった用事、もう一度教えてください」と、混乱したままの頭で聞いた。口頭で伝えられた2件の用事を必至で書き留めた。人にモノ頼むならメモ残しておけよ、と今ならその先輩に少し思うし、たぶん今度は言うだろう。
15:00になって先輩が去り、15:15過ぎに私は上がった。更衣室には誰もいなかった。
頭の中は情報と負の感情が処理できず氾濫していた。泣いて喚いて暴れそうだったが、自身のロッカーの戸を凹まない程度にひと殴りする程度に抑えた。職場の物品だから、というのは何とか頭にあった。
それだけでなんとか収めようとしたけど、頭の中はもう既にイライラ感で埋まって頭が爆発しそうだった。アンガーマネジメントなんて言葉があって、怒りはコントロール出来るとか言うけど、あれは理性があってある程度健全な精神だから出来るのではないだろうか、いつも疑問に感じている。ニ次感情といわれる怒り(何かの感情に反応し、その二次的に怒りが湧くという考え方)と、衝動性が高まったイライラ・興奮は何か違うような気がする。
とにかく、その時の私は、何かにもっと当りたいし暴れたいけど我慢しないといけないし、でも頭の中が爆発しそうで何とかしたくて泣きそうになった。
イライラを止めたくて、私はカバンにいつも入れている頓服薬を飲めばいいんだと思った。早く止めたいから、沢山飲めば効くかもしれない。それに、イライラで何にも当たれないなら、自分に当たるしかない。抗不安薬を10錠持っていた。それを職場の更衣室で全部飲んだ。
比較的強めの抗不安薬ではあるらしいが、mg数は多くない事もあり、10錠飲んだからすぐどうにかなる事はなかった。少しだけ頭がぼーっとして、身体が怠くなった。バスと電車は乗れたが、そこから更にバスに乗るのと歩くのが辛くなった。
ODの事は伏せ、いい年で恥ずかしながら母に最寄り駅からの迎えを依頼して帰宅した。
イライラ感は続いて、今度は自宅で過食をした。何を食べたかはもう覚えていないけど、モノを口や喉、胃に詰め込んでるときは無心になれるから、何も考えたくないときのクセになっていた。
翌日、身体の怠さが抜けなかったが、仕事には行かないとと思い、母に職場まで送ってもらおうとした。
だが、母も私の異常さに気が付いていたようだ。「それで仕事できるの?」と聞かれた。「イライラが取れなくて薬多く飲みました」と素直に話した。「死にたくて飲んだわけじゃない」とも。それに対して、なんて返されたかは覚えていない。だけど、休む事を勧められたような覚えはある。
本気で仕事に行くつもりでいたけど、結局休むことにした。イライラ感は昨日よりマシだったが、頭の右端辺りにぐるぐると渦巻いて滞在していた。抗不安薬を飲みきってしまったので、今度は市販の鎮静剤12錠と就眠時の抗うつ剤4錠を飲んだ。それから、職場の副師長(師長が不在だった)に、「ODをして身体が怠いので休みます」と連絡を入れた。馬鹿正直にODしたなんて言って、追いODまでするなんて恥ずかしいやつだな、と後から思った。が、頭の中をどうにかしたくて仕方なかったのだ。
薬の量としては中途半端すぎるため、幻覚だの離脱だの何だのというものはなかった。ただぼんやりと、1日過ごして終わった。最近は調子が良くて、そろそろ新しい仕事を覚えようという矢先でこれだったので、自分の行動にショックを受けていた。
翌日は職場へ行けたが、薬が残っているのか、メンタル面の不調か、少しぼんやりしていた。一昨日先輩から受けた用件のうち、一件は確認が取れた。もう一件については、正直いうと看護師じゃなく医師が把握している内容だろうと思ったこと、誰のカルテか名前やIDかは不明瞭で探せなかった事、また社会人として馬鹿だと思うが、半分は用事を口頭で伝えてきた先輩への八つ当たり的に、抜けた。
その後、かかりつけ医の受診日になり、ODした経緯を話し、イライラ感がすぐ取れるような頓服薬を依頼した。最初は錠剤を提案されたが、病棟でよく不穏時指示薬として使われている液剤の抗精神病薬をお願いした。統合失調症の治療にも使われる薬だ。液剤は吸収が早いので、易怒性や幻覚妄想がひどい患者にはよく飲ませることがあった。あとは、「イライラしたら布団を丸めて殴ってください。布団は壊れませんので」とアドバイスを受けた。
先輩の休み明け、先輩は当然私が用事をやっていると思っていた。まあ、普通なら当たり前だと思う。
だけど、私の状態は普通ではなかった。だから、「1件は確認できましたけど、カルテの件は休んだので分かりません」と、朝から逆ギレしていた。いつも穏やかな先輩も、「それは流石にだめだよ、仕事頼んでるんだから。そんなだと、もう何も頼めないよ」と言ってきた。私は、もはや何を言おうがいい訳だとはおもったが、あの用事を受けた時に混乱していた事と、その日のうちにODしたことを話した。
先輩は、私が安定して仕事していると思っていたそうだ。だけど、私が安定しているのは、安定しているフリをしているからだ。もちろん、本当に調子の良いときもあるし、ここしばらくは本当にそうだった。けど、心も頭も荒波状態で、それを必死に抑えて、体裁を繕っているだけのときもある。父の人工肛門閉鎖の手術も控えていたこともあり、大腸がんの時よりは重くないものの、多少の不安があった。そもそもまず、安定してたら過食なんて自傷行為もどきが常態化していない。過食で翌日具合悪いままに働いていることはよくある。
ODの話のあと、「ごめんね、安定してると思ってました」と先輩に言われた。「新しい仕事も、少し落ち着いてからにしようか」と言われた。だけど、今度はその先輩の顔を見ている事に何だかイライラ感がつのった。迷わず、トイレに行くと言って更衣室に駆け込み、貰ったばかりの抗精神病薬の液剤を1包飲んだ。結果、少ないmgにも関わらず、かなり傾眠(Drowsy:ドロージー、よく病棟では薬が効きすぎてドロドロとか言ってた)になった。
しかも、その日に限って仕事がなさ過ぎる上に、一人で放置される時間も多く、電話もほぼ鳴らず、一つだけあるデスクに突っ伏して眠りそうになってしまった。
ODの件は、その後、師長にも伝わり、色々と聞き取りを受けた。「検査結果なんだから、電話診察より来てもらったほうがいいと思うよ。別に間違ったことしてないと思うわよ、いいんじゃない」と、こんな感じのフォローをされた。それと、予定外だが産業医(ちいかわ先生)とも面談を組むことを勧められた。
ODを公言して大事にしたのは失敗したな、と思った。自分の体調やメンタルのことはどうでもよく、ただ波風を立てないでどうにかやって行きたかったのに。そこまで繕うことは出来なかった。だがちょうど、心理検査の結果も伝えられる日だったので、勧められたとおりに面談を受けた。
面談の日付はODから2週間後くらいだった。その前には、父の入院と手術付き添いもこなした。
ちいかわ先生は、ODの量と経緯を聞き取ると、経緯に対して「ほんとは病院でちゃんと統一しないとアカンことだから、誰先生の患者は〜とか対応言ったらキリないし、あなたが悩む事じゃないんですよ。誰先生のときはこうしろーあーしろーとかな、キリないんよ」と言われた。多分、これもフォローされたのかなと思う。それと、心理検査の結果もここで話をした。(この件は前記事触れているので割愛する)
ちいかわ先生からは名刺を貰っていて、別件の健康問題でメールのやり取りをしたことがあった。ODの件がちいかわ先生の耳に入った時は、ちいかわ先生からメールをくれていたらしく、面談の最後の方に「メール返してくれへんから心配だったんですよ」と言われた。確かに、後から見ると、ODして休んだ頃にメールが届いていたのを見つけて、申し訳ないなと思った。
以上が過量服薬した経緯と、その少し後までの話しだ。
正直言うと、普通の処理能力があれば、普通にこなせたのかなと思うし、こんな始末にならなかっただろう。俯瞰で見ると、自分の行動や思考に突っ込みどころがいっぱいだった。ただ一人で混乱して、自分や周りに暴力的になっているだけのことだった。
まず患者の検査結果と受診の件。これは採血のような数値ではない結果であり、医師も急を要するものではないと話した。電話再診で結果を聞けると言った先輩の案内に対して、私はその事を上手く先生に伝えられず、間違ったことを言って、間違った指示を受けたかもしれない、という恐怖の感情にかなり囚われていた。だけど、看護師として医師の指示には従ったし、後出しではあったが、それでいいよと先生も言った。なので、間違った事をした、という囚われは本来無用だったのではないだろうか。
先生に正しく伝達できていたかどうか。これはもう、患者の言葉をメモして、それを読み上げるしかないと思った。心理士には「耳で聞いたことを信用しないでください」といわれており、それくらいには耳で聞いた情報を正しく保持する力が低いのかなと思う。まして、電話は音声情報のみを一対一の密閉空間でやりとりをしなければならないので、周りが間違いを訂正すると言う事は難しく、自分で何とか正しい情報を捉えなくてはならない。
先輩の用件を受けた件については、時間が迫っている中でも、頭の中を切り替えて冷静な頭で話が聞けなかったのはミスだと思った。これはかかりつけ医にも「今ちょっと頭に違和感あるんですと、周りに伝えてしまっていいと思います」とアドバイスを受けた。
それと、先日発覚した自分の能力と照らし合わせると、やはり用件のメモを先輩自身に書いてもらえるように伝えればよかったとも思う。具体的に、いつ、何を、誰に依頼し、いつまでに、どの状態になればコンプリートか。メモを書けなくても、せめて聞くときにそれらを押さえて用件を受ければ間違いはないのではと思う。今度から、この先輩相手に限らず、そうしていきたい(口頭指示と読めない字をカルテに書くだけの医師には使えない手段だが…)
パニックや混乱からのイライラについては、正直どう対応していいか、未だに分からない。布団は家にしかないから、殴るというのはあまりに限定的だ。本当は、布団の中から出たくないのに仕事に行ってるんだから。メンヘラがリストカット用カッターを持っている理由が少し理解できた。
ただ二次感情のロジックで、イライラを怒りとして扱うならば、私は、自分の思い通りにならなかった事、すなわち通常パターンとは違う電話再診の問い合わせが来た事、振込ができることをレクチャーの時点で教えておいて欲しかったと感じたこと、要件があるならメモを書いて欲しいと感じた等々、他人に対してこうあって欲しいという期待感があった。それと、自分が失敗をして責められるかもしれないという恐怖心もあった。それらの感情が、自分を正当化するための怒りを産んだのでは、と考える事ができる。
だけど、私はそもそもアンガーマネジメントが嫌いだった。ADHD向けアンガーマネジメントの本は読んだこともあるし、あの有名なアドラー心理を元にした嫌われる勇気も読んだ。看護学生時代にアンガーマネジメントの講演も聞いたことがある。だけども、アンガーマネジメントは、怒りをつのらせるお前が悪いと責められているようで、なんとなく受け容れられないでいる。実践できる日はかなり遠いだろう。
ただ、イライラとは別に、パニックや混乱を起こす、というのは、もう能力値+仕事の性質的に、どうにもできないように思う。こちとら生体パーツなので、パソコンのようにcoreの数の増設は簡単には出来ない。ただ、処理速度を上げるパッチとして、投薬治療という方法はある。
あとは自業自得だけど、休職によって奨学金が返済しきれていないという枷のついた††哀しきナイチンゲール††なので、仕事を変えたければお金を払って(本来借りているお金なんだけども)辞めるしかないのが現状だ。60万、別に返せなくはないがなんかムカつく。勤務時間を戻して3ヶ月働けばチャラになる予定もあるのに。その前に出勤拒否起こしそうだけど。
ともかく、半端なODをしたところで、結局いいことはなかった。ただ、自分が思った以上に、己をサンドバッグにしてるような生き方をしてるなーと、すこし俯瞰して思った。思っただけで、繰り返さないとは誰とも約束し難いけど。
ただ、本気でODをしたら、運が良ければ死ぬけど、救急搬送モンの場合は胃洗浄なる苦しい処置を受けるそうだ。自傷の場合は、医療保険が効かない、つまりは全額自費で支払えという事らしいが、そこまでやったことがないので真偽は分からない。
ちなみに、私がODした市販薬の鎮静剤については、もっと大量に飲んで胃の中で餅状にくっついた物が洗浄や粉砕しきれずに成分が効き続けて続けて亡くなった、というような症例のレポートがネットで読める。これを読んだときは、死ぬためのODとはやはり覚悟と気合と量が必要になるなと思った。
まあさ、でもさ。こんな私が言うのもなんだけど、ODとかしても、何も意味ないよ。イライラしたからって自分のこと叩いても、痛いだけ。痛いなって分かっただけで終わったのが、今回の幸いなのかもね。
今週のお題「爆発」
どうやらカエルじゃなくウサギだったらしい
【悲報】まだ4G
感染病最前線というわけではないが、医療従事者ということなので、先日件のワクチンを接種した。
せっかくなので、接種までの経緯などもふくめて体験を記録しておこうと思う。
また、自分の体験した副反応についても書いていく。先に断ると、副反応は体調や体質による個人差も多くあり、痛みへの閾値なども千差万別なので、※個人の感想です、以上の意味も価値もない文章だということを書いておく。
ワクチン接種の希望は、今から数ヶ月前に取られていた。
休職中のとき、まだ所属だった病棟から電話が掛かってきた。某コロのワクチンを受けるか受けないか。
ちょうどニュースでも、医療従事者から打っていくというような方針が取り上げられていた頃だったと思う。また、Twitterを見ていて、海外ニュースから副反応について切り抜いて不安を述べているツイートも見かけた。
師長にはその場で返答するように言われ、一瞬迷った。が、不謹慎なことを言うと人体実験にされるつもりでもいいやと思い、希望を出した。アレルギーも花粉程度、他のワクチンで著しい体調不良になった記憶もなかったというのもある。掛かりたくないという前向きな思いよりも、もともとメンタルがイカれてる死にたい人間なので、何で死んでも変わらないという投げやりな気持ちだった。世間に申し訳ないくらい、どこまでも不謹慎の極みだった。
ちなみに、アレルギー等以外の理由で拒否できたかは知らないし、拒否した人間がいたのかは分からない。
3月に復職をして、年度が切り替わる頃、ワクチン接種の話題がポツポツ出始めた。会場だとか人数だとか。二転三転していく状況を聞いて、スケジュール調整をしている感染対策管理の担当者は本当に苦労していたんだろうなと思う。ワクチンが届く日も、個数も、ギリギリまで不明瞭だったのだろうか。下っ端なので実情は知らんけど、いつ届く、何時に届くと、それすらも二転三転していた。外来の患者さんにも、世間話のように「もう打ったの?」と、たびたび聞かれることがあった。
結局、4月の半ば頃、ワクチンは何週かに渡って分割で届き、唐突に言われるがままのスケジュールで接種を受けることになった。
筋肉注射の実施経験は少しあったが、筋注を実施される側になるのは初めてだった。筋層に届かせるため針を深々指すとき、すげえ痛そう…と思いながらやってたあれを、自分が受けるのかと思うとドキドキした。
私が会場に行った日の摂取担当者は、ベテランの看護師だった。というか、恐らくはそうした人達が選ばれていたのだろうか。このワクチンに関しては、神経損傷のリスク回避のため、これまで教科書上でよく習う筋注の手技と、接種部位などが若干違う方法を推奨されていた。これは接種の流れ等を含めて、厚生労働省のYouTubeで実技を見ることができる。
https://youtu.be/rcEVMi2OtCY
当日会場に行くと、問診医に問診票の内容チェックと簡単な健康チェックの質問を受けた。特筆するとすれば、私の場合は精神科薬を飲んでいる事、1回目については生理中だったことくらい。問診が終わると、担当の看護師によって注射が実施された。
力を抜いた左上腕に針を刺された。筋注は、驚くほどあっけなく終わった。痛みは、針を刺されるときくらいしか無かった。インフルエンザワクチンなんて液が入っているときが毎回痛いのに、と思ったが、液が入っているだろう最中、そんなものは一切なかった。あとで聞くと、先に受けた人達も同様だったそうだ。
接種後の観察時間中も何も起こらなかった。観察時間後も、普通に業務へ戻った。この時点での痛みはない。副反応は、翌日に出ると聞いていた。私の場合は、幸いにも翌日休みだったので、仕事への不安はなかった。せっかくなので、痛み止めを飲まずに過ごすことにした。
翌日の朝、腕に、針を刺されたところを中心に腫れたような痛みを感じた。が、たぶん私のは軽いレベルだったのだろう。気をつければ肩も腕も動かせるし、左腕を下敷きにしなければ強く痛まなかった。
ただ、ワクチン由来で痛み以外は何が起きてたか、正直分からない。残念なことに熱も計り忘れていた。体感で、発熱しているときのような不調ではなかったと思う。その日は、気力もなくほぼ寝たきりで過ごしていたが、運悪く生理最中でもともと調子が悪いことや、父の入院直後でメンタル的にも落ちていて、そちらの方が強かった気がした。ワクチンによる倦怠感かどうか特定出来なかった。
気力がなさすぎて、メンクリの定期処方以外飲まなかった。痛み止めを飲んでいたら少しマシになったのかもしれない。実際、先に受けた人たちは薬がよく効いたと聞く。
翌々日、ほとんど痛みは無くなっていた。左腕の接種部位を触ると、少し違和感はあったが、痛みというほどのものでもなかった。それも、その日の朝くらいで、あとは特に何もなかった。
2回目の摂取は3週間後に行なった。流れは1回目と同じだ。ただ、問診票には前回より抗うつ剤と抗不安薬の定期処方が増えた事は記載した。
前回と同じく左腕での接種だった。前回より刺して液が入ってきたと思われるときに少し痛みが強いかなと感じたが、それ以外は特になかった。観察時間15分後も何も起こらず、前回同様、業務に戻った。ただ発熱する確率は高いとの事で、病院からカロナール2錠を支給された。
今回もまた、翌日が土曜日で休日だった。しかし、メンクリの受診予約が午前中だった。
さてどうなるか、とも思ったが、朝起きてみると、前回のように腕が痛いだけだった。痛すぎて着替えができないだとかそんなこともなかった。熱も36度台。いつも通りに支度し、10時頃の診察に向けて出かけた。
休日の受診の場合、薬を受け取ったあとによく寄り道をするのだが、今回ばかりは薬をもらってすぐ帰宅しようと思った。途中でで帰れなくなったり、何かあるのはやはり怖いので。ただ、晴れていたのでいつもより1つくらい前のバス停におりて、ウォーキングをかますくらいの余裕はあった。
昼頃に帰宅してすぐは暑くて食欲がなかったので水分だけで過ごしていた。しばらくして、母と取り留めのない事をべらべらと喋り続けていた。途中で熱を測ると36度台の平熱程度で、なんだか拍子抜けだなと愚痴ったりした。
だが、話しているうちに段々とテンションが高くなるのを感じた。私はよく、発熱時に異様にテンションがUREEYYYとハイになることがある。今回のテンションの高さがまさにそれだった。顔が赤いよ、と母に指摘された。来たかッ……!と熱を測ると37.1だった。久々の発熱に更にテンションがフィーバーした。
私は、このままどこまで熱が高くなるのか気になった。人生は人体実験だとか誰かが行ったか言わないか分からないけど、メンタルと肥満体型なこと以外は丈夫なので好奇心のほうが勝った。特に予定もなかったので、カロナールと水分と体温計を近く置いて、ベッドに横置き族になった。
途中で家族が出かけていった。カエルだから我慢できたけど人間だったら我慢できなかったかもしれない。熱発から2時間位して測定すると37.6だった。気がつくと眠っていて、起きた頃には夜だった。家族も帰ってきていた。熱は37.4度。上がりも下がりも大してなく、身体はだるいままだった。念の為入浴はせずに、メンクリの薬だけを飲んで就寝した。
翌日になると身体はだるいし腕も痛いが、熱は36度台に戻っていた。これで5Gに繋がるとワクワクしたが、田舎すぎて5G回線がまだ無かったことを思い出した。
もしもこれから受ける人が読んでいたら、特にためになる教訓はないが、痛みや熱を避けるならば、自分が体質的に使用できる解熱鎮痛剤を用意するのがいいのかもしれない。あとは、可能であれば翌日仕事など休めるほうがいいだろうと思う。体調も万全にした方がいい。女性なら、生理中に体調が良くないなら避けたいところだが、こればかりは予約がなので難しいかもしれない。また、他のワクチンでもそうだけど、持病等でかかりつけ医があるならそこで一言相談はしたほうがいいと思う。問診票にもそういう欄あるしね。
ワクチン陰謀論はネタ的に面白いと思うけども、ワクチンって予防効果と重症化のリスクを下げるという役割もあるんで、あんまり悪く言わないでくれよな……とは思っている。あと、どんな薬もワクチンも重篤な副作用という欄はあるので、いろんな薬のをググって見てみると面白いよと言ってみるテスト。
3歩進んで3歩下がって1歩前へ
ひょんな事からぽきっと折れた前回の日記から50日は経過してる。
これ以降、休みに発展するほど折れる事は起きてない。せいぜい寝て2日くらいすれば記憶が薄まって、たまに思い出して風呂で叫びたくなる程度の傷はあるけど。相変わらずの低空飛行だが、勤務はできている。
簡単に、ここまでの自分や周りの変化した事をまずまとめると、
①自立支援医療制度を申し込んだ
②頓服の安定剤を定期的に飲むようになっていた
➂➁が続いた事で抗うつ剤を開始した
➃父が大腸がんを宣告され手術をする付添いをした
⑤産業医と面談したが勤務時間を増やさなかった
こんな感じだろうか。本当は一気に書かずに少しずつ日記をつけたかったが、どうにも書こうとする気力が無かったので、ここで整理のため、順を追ってひとまとめに書きつけようと思う。
➀は精神科限定で指定された医院・薬局の健康保険負担が1割になる制度である。なぜ今更?という感じだし、薬自体はそれほど高額ではない。だが給料も減り、毎週通院しているため少しでも費用を減らしたいと思って申請した。これには医師の診断書が必要なのだが、診断名がうつ病だったのは驚いた。だが、後の展開を考えると笑うしかない。診断書というよりは預言書だったようだ。
➁については、4月の中頃からだったように思う。
新しく仕事を覚える毎に不安が募っていた。
仮にも常勤で雇われている身、本来であれば相応の仕事や責任を追う身分でないといけないのだろうが、それが果たして自分に可能なのか、不安や心配が付き纏うようになった。甘えた話で情けないのだけども…
また、外来という常にタスクが積み上げ続けられる業務で、突然に慣れない仕事を振られるとパニックやフリーズがたびたび起きた。重大な事故ではないものの、インシデントも何度か起こしている。
仕事が終わり疲れると、ネガティブな思考に支配される事も少なくなかった。
わけが無くとも漠然とした不安感があった。
久々に死にたくなった。将来とか未来とか、どうでもよくなってしまった。時間が経過することそのものが苦痛で、救急搬送されずにODで死ぬならば、寝る時間に飲んで布団に入ってしまえばどうだろうなどと考えていた。今も実は、最終手段として狙っている。
不安や緊張が高まると嘔吐く事があり、これは昔別職種で勤めていたときから出るようになったのだが、収まっていたそれが出てくるようになった。過食も少しあった。そこから、頓服の抗不安薬を飲むようになった。飲めば、不安の谷底に落ちる事はなくなる。ときには朝起きて、ときには仕事中、ときには仕事終了後、ときには寝る前に。ODはしていないが、頓服というよりは定期処方並に飲むようになっていた。
➂は、そんな話を掻い摘んでした事(だけど、死にたい事は言えなかった)で主治医から抗うつ剤を勧められた。精神科に勤めていながら、正直言うと薬が怖かった。漢方を定期処方に、頓服で抗不安薬と眠剤を使うくらいに留めたいと思っていた。だから、話を切り出されたときは少しショックを受けた。体はまあまあ動くし元気だと思ってた。だけど、その実、元気風に真面目風に、なんとか頑張っている自分というのも確かにいる。大丈夫かと言われたら大丈夫とは答えるけども、いっぱいいっぱいという感じの自分。抵抗感はあったが、不安や焦りが楽になるならばと思い、抗うつ剤を始めた。
飲み始めは吐き気がしたが、しばらくして慣れた。しかし、効果はまだ実感していない。薬局の薬剤師に、効果を得て安定するまでに年単位飲む必要があると聞いて、自立支援を申し込んだのは正解だったなと思った。
➃は、休職中の頃から密かに危惧はしていた。年始から、父はかかりつけ医にやたらと消化器系の検査に呼ばれた。当時は、祖母が肝臓がん末期で落ち着かなかったので一瞬忘れかけていたが、色々調べた後に紹介先の総合病院で受けた検査で、大腸がんが発覚した。何を考えてるから一見分かりづらい父と、心配性で色々と調べて最悪の事態を想定する母とともにIC(インフォームド・コンセント:説明)へ同席した。詳細な機序は省くが、大き過ぎる腫瘍のせいで、腸管が普通の状態では無くなっていた。入院はGW明けになり、父は腸管を詰まらせないような食事のみを取って過ごしていた。病棟なら絶食に点滴だろうに。急変しない事を祈りながらのGWだった。このようなときに申し訳ないと思いつつ、某神社へ行き、健康祈願の願かけと絵馬を納めた。人様の絵馬を読んで、書いた人の心境を想像したり、自身の状況を重ねたりしてしまい、苦しくなって境内で泣いた。
GW明け、父の入院は母と共に付き添いをした。だが、手術説明が夕方遅くなるとの事で、母と一旦帰宅した。説明は、再度来院して母が受ける予定だった。一緒に聞きたいところだが、感染対策から来院人数も制限があると予め言われていたので仕方なかった。
ところが、母は緊張や不安で眠れなかったりと体調が悪く、夕方には完全にグロッキーになっていた。運転させたら安全に帰れる様子ではないし、タクシーや公共の乗り物は極度に酔うので乗れない質なのである。私よりよほどメンヘラ病人チックで、実のところ、私の方はメンヘラでも何でもないのでは?とすら思ってしまった。運転のできない私は、安定剤を食らい、1人タクシーで手術説明の同席へと向かった。
手術説明自体は、看護学生時代の勉強を思い出しつつ、「あ、チャレンジでやったところだ!」に近い気持ちで聞いていたが、ガンが大き過ぎてリンパ節への転移もあり得ると聞いて、じわじわ動揺した。正確な事は病理検査を経て分かるため、転移は無いかもしれないとも言われたが、それでもショックを受けた。
説明後、少しぽかんとしている父に「リンパ液って体全体に流れてるから、要はその節から他に転移するってことだからね」などと、今考えると心無い説明をしてしまった。その程度には、私も混乱してたのかもしれない。終末期実習なら患者への寄り添いゼロで不合格だろうし、家族としても労りゼロのあたおか発言だった。いい年してしっかり出来なくて、情けないと思う。母へはどう説明しようか悩んだが、結局、私が帰るまでの間に、父が電話で、リンパ節転移の可能性も含めて医師の説明を母に伝えていた。
そんなこんなで入院初日が終わり、手術日まで気が気でない日々を過ごした。電話越しの父の声は元気そうだったのが救いだが、私の内心は不安でしかたなく、意味のない想像に押しつぶされ、夜になると泣いていた。そして、過食魔の私にしては珍しいほどに食欲が失せていた。熟眠感はないが、なんとか眠れていたのは幸いだったと思う。メンタルが悪いときこそ、十分な睡眠や、栄養バランスのいい食事だとかが必要なのは分かっていたが、どうにも私はストレス環境から不健康な生活に流されやすく、それをコントロールできなかった。
手術当日は、風が強かった。雨は降ってたけど、それほど強くなかったとは思う。早めに目が醒めて布団でぼんやりしていたが、母が1階で嘔吐している声に驚いて意識が覚醒した。不調を抱えてる母がこうなる事は、半分は想定していた。母は家に留まり、私は安定剤をお守りのように持って、またタクシーを呼んだ。腹腔鏡下だし、術後ICU行きじゃない、一番不安なのは本人だし云々と自分に言い聞かせてたが、万が一不測の事態があっても、まず受け止めるのが自分という状況が心細かった。
病院には少し早めに到着し、父とデイルームで話ができた。少しだけ目が潤んでるように見えたが、気のせいだったかもしれない。逃げ出したいよ、と父が言っていた。時間があったので母に電話し、父にスマホを渡して話をしてもらった。
時間になり、父、付添いの看護師、私で手術室に向かった。他病棟からも検査や手術と思しき人達が歩いていた。父と看護師が手術室へ入る所を見守って、一人で病棟へ戻った。
父が手術の間、デイルームでずっと待っていた。朝食を取らずに来たので、コンビニでご飯を買ったけど、あまり食べる気にならなかった。最初のうちは本を読んで過ごしていたが、昼になっても終わらなかったので、段々とそわそわして不安になった。救急搬送からの緊急手術でもあるまいし、なにかあれば病棟にも連絡がくるのではないか。分かっていても、身内の手術を一人で待つという体験は本当に初めてだったので、生きた心地がしなかった。不安で泣きそうになったので安定剤を飲んで、母とメールをしながら気を紛らわした。そうしているうちに、手術が終わった事を看護師が伝えてくれた。
手術室の入り口で待ってると、執刀医が「取ったものを見ますか?」と聞いてきたので、にべもなく見ますと答えた。グロ耐性は無いが、内蔵単体くらいなら見れるタイプだった。父の腸管と腫瘍のくっついたものを見ながら、取った部位や中の状況、一時的な人工肛門を増設したと説明を受けた。人工肛門の管理は基本的に本人だが、「本人以外で家族が手伝うとしたら誰かいますか」と聞かれたので、私がすると答えた。経験は少ないが、病棟でオストメイトの患者の看護の経験はあったから特に抵抗はなかった。
説明の最後に、医師に許可を得て、取った部位をスマホで撮影した。恐らく、父は取った物を見たがるだろうと思ったからだ。それだけはやけに落ち着いていたなと、今にしてみれば思う。
(ちなみに、最近出かけたり写真を取る機会がないので、フォルダーの先頭はまだ父の腸管と腫瘍の写真である。)
病棟に戻ってしばらくすると、父も病室へ戻ってきた。麻酔から覚めたばかりなので、全身にモニターやルート、ドレーン等々ついた状態で、目もぼんやりしている表情だった。酸素マスクも着いているので、声をかけると頷いたり首を降ったりして父が応答した。手を握ると、ぎゅっと握り返されて、怖かったのだろうと思い、少し胸が苦しくなった。一時的な個室だったので、看護師に許可を得て、室内でテレビ電話越しに父と母を合わせた。
疲れてるだろうからと言うこともあり、あまり長居はせずに病室を出た。父が布団から手を出して、手を振ってくれた。結局、病院には6時間くらい滞在していた。病院を出て、小雨が降る中、最寄り駅からタクシーに乗って帰宅した。
現在父は、術後合併症もおこさず順調に回復している様子である。電話やメールで順調な経過を伝えてきてくれることにほっとしている。暇すぎなのか、母のスマホの受信音が頻繁に鳴ってるのが微笑ましい。病理検査の結果という、次の審判が待っている状況だが、ひとつ山を超えたことには安心している。
最後になるが、⑤については、文字通りだ。先日復職して2度目の産業医との面談が終わったが、今回は時間を伸ばすことはしなかった。
前回は午前中のみで、月の後半の方から余裕が出てきたので、15時までに伸ばそうと思えたが、今回については、情けない事に今の時間を働くのが精一杯だと感じていた。また、面談をした日が父の手術前だった事もあり、余計に自分の不安定さが強かった。仕事や仕事場自体に慣れきているが、最初の方に書いた不安や抗うつ剤の件、プライベートのこの状況もすべて伝え、このままでまだ様子を見させてほしいと話した。産業医は「そのほうがいいと思います」と同意をしてくれた。「人生いろいろあるわな」と。
周囲への申し訳無さや自分の弱さ、甘えが嫌すぎる所もあるが、これで良かったのだと思う。次の一ヶ月は、もっと余裕が出て、落ち着いて働けてるようになりたい。死ぬほど看護師は向いてないから早く辞めたいと思う反面、仕事を続けさせてもらっている職場には大いに感謝しているので、仇を返さない形にしたいと思う。
ここ最近の大きなトピックスこんな感じである。文章に起こすと少し振り返りができるので、出来ればもう少しこまめに書きたかったが、習慣づけるのは難しかった。Twitterで小出しにしているせいもあるかもしれないが。なかなか上向きにならない自身の状況に我ながら嫌気が差すが、この状況でも、著しい後退してはいないからヨシと思う事にして、このままやっていくしかないと思っている。
かえる死す
復職して4週間目、通勤19日目にして仕事を休んだ。前々日には産業医と面談し、調子がいいので勤務時間を午後まで増やしてもらうという算段をした矢先に、だ。
朝起きてみると、大丈夫?と問いかけられたときに、大丈夫と答えられるけど、今にも泣きそうな状態を感じていた。明らかに休職前の良くないときと同じだった。
きっかけは些細なことだった。寝不足と人の大声。
ここ最近、少しだけ寝つきが悪い日があった。布団に入るものの眠るタイミングを逃して、2~3時に漸く就寝することがあった。起床は6時過ぎ。3~4時間睡眠になっている日があった。
寝つきが悪くなる理由に思い当たるとすれば、恥ずかしい話だけど、ネット依存気味なところだろうと思う。日中に不安定さを感じると、消灯してもTwitterやYoutubeをダラダラ見てしまうことがあった。寝付くまでの間、と思うものの、却ってスマホの画面を見つめるので頭が覚醒状態になる。その後1時を過ぎて、いい加減に眠らないと不味いと思いスマホを手放しても、結局寝付くどころか眠気は遥か遠くに旅立ってしまっているのだ。
スマホやPCのブルーライトが睡眠の質を悪くするなどという話もとっくに知っているが、どうにもやめられない。これに限らず、恐らく、自分は面白いこと、楽しいこと、美味しいことなど、快楽的な欲求に手を付けると自制心があまり効かない傾向のようだと思う。病的なレベルかどうかまでは分からないけども。この現状や健康診断に引っかかるレベルのおふとりさまな点は病的ともいえるか。
自業自得の睡眠不足だが、これはメンタルにかなり悪く作用した。ボーっとしてパフォーマンスが落ちるというのもそうだけど、感情的にも脆くなってしまうのだ。理性的に考えて耐えられることや流せることが捌ききれず、些細なことがダイレクトアタックとなってしまう。聖なるバリアミラーフォースは健康でないと発動しないらしい。昨日が丁度そんな状態だった。
昨日の外来は、少し混んでいたように思う。その患者は、医師の記載する書類を必要とするために受診にきていた。患者と会話し、習った手順通りに、そのことをメモした紙をカルテに貼る。リーダー役割の看護師に内容を伝えターンエンド。その看護師から私のメモを貼ったカルテが医師へと渡った。
看護師の処置室と診察室は壁を隔ててつながっている作りになっている。処置室で先輩看護師と他の作業をしていると、「この書類の名前じゃわからないんだけど」とカルテを片手に医師が大声で処置室に来た。イライラした表情だった。私のメモが貼ってあるカルテだった。
大声の瞬間にメモを見つけたので、恐怖と申し訳なさで竦むような感覚と緊張を感じた。寝不足でまともに防御機構が働かないメンタルには効果抜群だった。しどろもどろに説明しようとしたが、埒が明かないので結局患者本人から該当の書類を預かった。そこから先は、リーダー役の看護師へと対応を引き継いだ。結局、発行可能かどうか医師もわからず、看護師から多職種へ確認連絡が回されていた。
たったそれだけの出来事が、仕事の後も引っかかていた。男性女性、健康不健康に限らず、いらいらした気持ちの込められた大声がどうやら苦手なようだ。半日勤務を終えて、好きなものを食べたり、近所の公園に散歩してみたり、昼寝をしてみたが、恐怖感の濃度が変わるだけで、恐怖感はあり続けた。精神的に落ちているという感覚もあって、誤魔化しは聞く程度であるが、少しの情動的な衝撃で涙が出そうな状態であった。夕方、とても久しぶりに頓服の抗不安剤に頼った。浮上することはなかったけど、落ち続けることもなくなった。
その日の夜はさすがに夜更かしはせずに眠れた。が、朝起きて鏡を見るとしっかりと目の下に隈が出来ていた。脳裏に大声の場面が浮かんでいた。不快を引き摺って反芻する状態になりかけている。泣きそうだった。
こんな事で休むのかとギリギリまで迷ったが、結局師長に連絡した。不調を責められることはなかったものの、どうして不調を起こしたかを聞き取られ、寝不足と昨日の出来事を話した。責められているわけではないが、自業自得な部分もあるので、話していて苦痛に感じた。休む理由がまるで子供みたいだとやるせなかった。
昨日の状況は一体何だったのだろう。昨日はあまり纏まりのある思考ができなかったので、今日少し振り返ってみことにした。
その医師は精神科外来を担当し、しかも役職クラスということもあり、恐らくかなり忙しいのだろうと思う。患者との診察場面はまだじっくり見たことないが、いつもピリピリした雰囲気がある医師だった。呼んだ患者が来ないから探せと言われ、見つけたことを報告しようとすると他患者の診察が始まっており、部屋に入りざまに睨まれたことや、自分の次の診察予約と合わせて検査予約を入れろと予約票もなく依頼されたときに、予約時間を知りたかった検査担当に代わって時間を聞くと「知らない!……ああ、〇時」とイラついた声で返されたことがある。接した時間がまだ少なく、あまり情報のない中で私の判断をしてしまうが、不快感や思い通りにいかない憤りを職場で表に出すことをよしとしている人なのかもしれない。そう認識して、対応した方が良いのだろう。精神科の医師なのに、役職付きなのに、というのはこの際関係ない。この人もまた、技能と人格とポジションは別物だという教えてくれる存在かもしれない。だからと言って、あまり声を張り上げてほしくはないのが本音だけど。
他方、書類の件は、始めから預かっていればもう少しスムーズだったのかもしれない。自分もよくわからない書類だったのだから。ただ、預からなかった理由があるとすれば、お薬手帳などがそうだが、不用意に患者のものを預かることで、診察後に返却したのしないのといったトラブルがあるため、直接医師に見せるよう説明した方がいいと先輩看護師より指導を受けていた。ともすればマニュアル不足の丸投げを良い様に言い換えたとしか思えず、指導的内容の文脈に使われると激しい嫌悪感に襲われる言葉No1ではあるものの、これが臨機応変というものが問われる場面だったのだろうと思う。
また、書類だけ必要という患者の話をそのままに、必要になった経緯を聞き取っていれば違っていたのかとも考えるが、それは医師が診察で聞き取っても変わらないのでは……まあ情報収集というのは、病棟だけでなく外来でも必要になる能力なのか、と少し勉強になった。
誰が悪いとか考えると私の具合が悪くなるのでそこは考えない。振り返って具合が悪くなるのでは意味がないのだ。これを読んで、お前さあ…となった人も心の中にしまって欲しい。
悪いとすれば寝不足だ。寝不足は恐ろしい。ダメージが常に会心の一撃になるデバフだ。十分なパフォーマンスが発揮できずミスすることでの自己肯定感の低下、コミュニケーションの事故による疲労等々、些細なストレスが不必要に暴力的になって襲ってくる。メンタルのダメージを引き摺って、愚痴や自責で不快感を反芻し始め、ネットやゲーム、過食、飲酒等々、眠れなかったり睡眠の質が悪くなるような行為に走ると睡眠不足状態になる。寝不足は恐ろしい。無限ループって怖くね?の世界に突入する。しかも、負ったダメージはちょっとやそっとで取り除けない。深く広い傷口ほど治りが遅いのは、肉体だけでなく精神も同じだろう。特に看護学生や病棟勤務時はこの闇のループにいたように思う。体の衰弱も心の衰弱も行き着く先は死。適切な睡眠は命に等しい。とにかく寝ろ、しかして希望せよ。明日は多分働ける。