3歩進んで3歩下がって1歩前へ

ひょんな事からぽきっと折れた前回の日記から50日は経過してる。
これ以降、休みに発展するほど折れる事は起きてない。せいぜい寝て2日くらいすれば記憶が薄まって、たまに思い出して風呂で叫びたくなる程度の傷はあるけど。相変わらずの低空飛行だが、勤務はできている。
簡単に、ここまでの自分や周りの変化した事をまずまとめると、

自立支援医療制度を申し込んだ
②頓服の安定剤を定期的に飲むようになっていた
➂➁が続いた事で抗うつ剤を開始した
➃父が大腸がんを宣告され手術をする付添いをした
産業医と面談したが勤務時間を増やさなかった

こんな感じだろうか。本当は一気に書かずに少しずつ日記をつけたかったが、どうにも書こうとする気力が無かったので、ここで整理のため、順を追ってひとまとめに書きつけようと思う。


➀は精神科限定で指定された医院・薬局の健康保険負担が1割になる制度である。なぜ今更?という感じだし、薬自体はそれほど高額ではない。だが給料も減り、毎週通院しているため少しでも費用を減らしたいと思って申請した。これには医師の診断書が必要なのだが、診断名がうつ病だったのは驚いた。だが、後の展開を考えると笑うしかない。診断書というよりは預言書だったようだ。


➁については、4月の中頃からだったように思う。
新しく仕事を覚える毎に不安が募っていた。
仮にも常勤で雇われている身、本来であれば相応の仕事や責任を追う身分でないといけないのだろうが、それが果たして自分に可能なのか、不安や心配が付き纏うようになった。甘えた話で情けないのだけども…
また、外来という常にタスクが積み上げ続けられる業務で、突然に慣れない仕事を振られるとパニックやフリーズがたびたび起きた。重大な事故ではないものの、インシデントも何度か起こしている。
仕事が終わり疲れると、ネガティブな思考に支配される事も少なくなかった。
わけが無くとも漠然とした不安感があった。
久々に死にたくなった。将来とか未来とか、どうでもよくなってしまった。時間が経過することそのものが苦痛で、救急搬送されずにODで死ぬならば、寝る時間に飲んで布団に入ってしまえばどうだろうなどと考えていた。今も実は、最終手段として狙っている。 
不安や緊張が高まると嘔吐く事があり、これは昔別職種で勤めていたときから出るようになったのだが、収まっていたそれが出てくるようになった。過食も少しあった。そこから、頓服の抗不安薬を飲むようになった。飲めば、不安の谷底に落ちる事はなくなる。ときには朝起きて、ときには仕事中、ときには仕事終了後、ときには寝る前に。ODはしていないが、頓服というよりは定期処方並に飲むようになっていた。


➂は、そんな話を掻い摘んでした事(だけど、死にたい事は言えなかった)で主治医から抗うつ剤を勧められた。精神科に勤めていながら、正直言うと薬が怖かった。漢方を定期処方に、頓服で抗不安薬眠剤を使うくらいに留めたいと思っていた。だから、話を切り出されたときは少しショックを受けた。体はまあまあ動くし元気だと思ってた。だけど、その実、元気風に真面目風に、なんとか頑張っている自分というのも確かにいる。大丈夫かと言われたら大丈夫とは答えるけども、いっぱいいっぱいという感じの自分。抵抗感はあったが、不安や焦りが楽になるならばと思い、抗うつ剤を始めた。
飲み始めは吐き気がしたが、しばらくして慣れた。しかし、効果はまだ実感していない。薬局の薬剤師に、効果を得て安定するまでに年単位飲む必要があると聞いて、自立支援を申し込んだのは正解だったなと思った。


➃は、休職中の頃から密かに危惧はしていた。年始から、父はかかりつけ医にやたらと消化器系の検査に呼ばれた。当時は、祖母が肝臓がん末期で落ち着かなかったので一瞬忘れかけていたが、色々調べた後に紹介先の総合病院で受けた検査で、大腸がんが発覚した。何を考えてるから一見分かりづらい父と、心配性で色々と調べて最悪の事態を想定する母とともにIC(インフォームド・コンセント:説明)へ同席した。詳細な機序は省くが、大き過ぎる腫瘍のせいで、腸管が普通の状態では無くなっていた。入院はGW明けになり、父は腸管を詰まらせないような食事のみを取って過ごしていた。病棟なら絶食に点滴だろうに。急変しない事を祈りながらのGWだった。このようなときに申し訳ないと思いつつ、某神社へ行き、健康祈願の願かけと絵馬を納めた。人様の絵馬を読んで、書いた人の心境を想像したり、自身の状況を重ねたりしてしまい、苦しくなって境内で泣いた。

GW明け、父の入院は母と共に付き添いをした。だが、手術説明が夕方遅くなるとの事で、母と一旦帰宅した。説明は、再度来院して母が受ける予定だった。一緒に聞きたいところだが、感染対策から来院人数も制限があると予め言われていたので仕方なかった。
ところが、母は緊張や不安で眠れなかったりと体調が悪く、夕方には完全にグロッキーになっていた。運転させたら安全に帰れる様子ではないし、タクシーや公共の乗り物は極度に酔うので乗れない質なのである。私よりよほどメンヘラ病人チックで、実のところ、私の方はメンヘラでも何でもないのでは?とすら思ってしまった。運転のできない私は、安定剤を食らい、1人タクシーで手術説明の同席へと向かった。

手術説明自体は、看護学生時代の勉強を思い出しつつ、「あ、チャレンジでやったところだ!」に近い気持ちで聞いていたが、ガンが大き過ぎてリンパ節への転移もあり得ると聞いて、じわじわ動揺した。正確な事は病理検査を経て分かるため、転移は無いかもしれないとも言われたが、それでもショックを受けた。
説明後、少しぽかんとしている父に「リンパ液って体全体に流れてるから、要はその節から他に転移するってことだからね」などと、今考えると心無い説明をしてしまった。その程度には、私も混乱してたのかもしれない。終末期実習なら患者への寄り添いゼロで不合格だろうし、家族としても労りゼロのあたおか発言だった。いい年してしっかり出来なくて、情けないと思う。母へはどう説明しようか悩んだが、結局、私が帰るまでの間に、父が電話で、リンパ節転移の可能性も含めて医師の説明を母に伝えていた。

そんなこんなで入院初日が終わり、手術日まで気が気でない日々を過ごした。電話越しの父の声は元気そうだったのが救いだが、私の内心は不安でしかたなく、意味のない想像に押しつぶされ、夜になると泣いていた。そして、過食魔の私にしては珍しいほどに食欲が失せていた。熟眠感はないが、なんとか眠れていたのは幸いだったと思う。メンタルが悪いときこそ、十分な睡眠や、栄養バランスのいい食事だとかが必要なのは分かっていたが、どうにも私はストレス環境から不健康な生活に流されやすく、それをコントロールできなかった。

手術当日は、風が強かった。雨は降ってたけど、それほど強くなかったとは思う。早めに目が醒めて布団でぼんやりしていたが、母が1階で嘔吐している声に驚いて意識が覚醒した。不調を抱えてる母がこうなる事は、半分は想定していた。母は家に留まり、私は安定剤をお守りのように持って、またタクシーを呼んだ。腹腔鏡下だし、術後ICU行きじゃない、一番不安なのは本人だし云々と自分に言い聞かせてたが、万が一不測の事態があっても、まず受け止めるのが自分という状況が心細かった。
病院には少し早めに到着し、父とデイルームで話ができた。少しだけ目が潤んでるように見えたが、気のせいだったかもしれない。逃げ出したいよ、と父が言っていた。時間があったので母に電話し、父にスマホを渡して話をしてもらった。
時間になり、父、付添いの看護師、私で手術室に向かった。他病棟からも検査や手術と思しき人達が歩いていた。父と看護師が手術室へ入る所を見守って、一人で病棟へ戻った。
父が手術の間、デイルームでずっと待っていた。朝食を取らずに来たので、コンビニでご飯を買ったけど、あまり食べる気にならなかった。最初のうちは本を読んで過ごしていたが、昼になっても終わらなかったので、段々とそわそわして不安になった。救急搬送からの緊急手術でもあるまいし、なにかあれば病棟にも連絡がくるのではないか。分かっていても、身内の手術を一人で待つという体験は本当に初めてだったので、生きた心地がしなかった。不安で泣きそうになったので安定剤を飲んで、母とメールをしながら気を紛らわした。そうしているうちに、手術が終わった事を看護師が伝えてくれた。

手術室の入り口で待ってると、執刀医が「取ったものを見ますか?」と聞いてきたので、にべもなく見ますと答えた。グロ耐性は無いが、内蔵単体くらいなら見れるタイプだった。父の腸管と腫瘍のくっついたものを見ながら、取った部位や中の状況、一時的な人工肛門を増設したと説明を受けた。人工肛門の管理は基本的に本人だが、「本人以外で家族が手伝うとしたら誰かいますか」と聞かれたので、私がすると答えた。経験は少ないが、病棟でオストメイトの患者の看護の経験はあったから特に抵抗はなかった。
説明の最後に、医師に許可を得て、取った部位をスマホで撮影した。恐らく、父は取った物を見たがるだろうと思ったからだ。それだけはやけに落ち着いていたなと、今にしてみれば思う。
(ちなみに、最近出かけたり写真を取る機会がないので、フォルダーの先頭はまだ父の腸管と腫瘍の写真である。)

病棟に戻ってしばらくすると、父も病室へ戻ってきた。麻酔から覚めたばかりなので、全身にモニターやルート、ドレーン等々ついた状態で、目もぼんやりしている表情だった。酸素マスクも着いているので、声をかけると頷いたり首を降ったりして父が応答した。手を握ると、ぎゅっと握り返されて、怖かったのだろうと思い、少し胸が苦しくなった。一時的な個室だったので、看護師に許可を得て、室内でテレビ電話越しに父と母を合わせた。
疲れてるだろうからと言うこともあり、あまり長居はせずに病室を出た。父が布団から手を出して、手を振ってくれた。結局、病院には6時間くらい滞在していた。病院を出て、小雨が降る中、最寄り駅からタクシーに乗って帰宅した。

現在父は、術後合併症もおこさず順調に回復している様子である。電話やメールで順調な経過を伝えてきてくれることにほっとしている。暇すぎなのか、母のスマホの受信音が頻繁に鳴ってるのが微笑ましい。病理検査の結果という、次の審判が待っている状況だが、ひとつ山を超えたことには安心している。


最後になるが、⑤については、文字通りだ。先日復職して2度目の産業医との面談が終わったが、今回は時間を伸ばすことはしなかった。
前回は午前中のみで、月の後半の方から余裕が出てきたので、15時までに伸ばそうと思えたが、今回については、情けない事に今の時間を働くのが精一杯だと感じていた。また、面談をした日が父の手術前だった事もあり、余計に自分の不安定さが強かった。仕事や仕事場自体に慣れきているが、最初の方に書いた不安や抗うつ剤の件、プライベートのこの状況もすべて伝え、このままでまだ様子を見させてほしいと話した。産業医は「そのほうがいいと思います」と同意をしてくれた。「人生いろいろあるわな」と。
周囲への申し訳無さや自分の弱さ、甘えが嫌すぎる所もあるが、これで良かったのだと思う。次の一ヶ月は、もっと余裕が出て、落ち着いて働けてるようになりたい。死ぬほど看護師は向いてないから早く辞めたいと思う反面、仕事を続けさせてもらっている職場には大いに感謝しているので、仇を返さない形にしたいと思う。


ここ最近の大きなトピックスこんな感じである。文章に起こすと少し振り返りができるので、出来ればもう少しこまめに書きたかったが、習慣づけるのは難しかった。Twitterで小出しにしているせいもあるかもしれないが。なかなか上向きにならない自身の状況に我ながら嫌気が差すが、この状況でも、著しい後退してはいないからヨシと思う事にして、このままやっていくしかないと思っている。